上手くなる?
上手くなる?
大学で教えるようになったとき、ボクに求められていたのは、「服づくりの技術を伝えてほしい」ということでした。
デザインの良し悪しを語るのは難しいので、ここでは脇に置くとして、「型紙をつくり、仕立てる技術が上達すること」が、その役割だったのだと思います。
もちろん、課題を預かる以上、それは大切な仕事でした。
けれど、年々、ボクは“技術の上達”そのものについて語らなくなっていきました。
「上手くなる」こと自体を否定したいわけではありません。
ただ、それが最優先事項ではない、と感じるようになったからです。
ボクは、「上手くできること」よりも、「上手さがわかること」のほうが大切だと思っています。
もちろん、この二つは切り離せません。
実際に手を動かし、上手くできるようになることで、初めて見えてくるものもあります。
けれど、「上手さがわからないままの上達」は、長い目で見ると、あまり意味を持たないように感じます。
そもそも、「上手く縫われた服」が、そのまま「良い服」なのでしょうか。
ボクが大学で、単純な技術論をあまり語らなくなった理由の一つは、ここにあります。
技術があることは、もちろん良いことです。
でも、「上手くなる」は、服づくり全体の中の一部分にすぎません。
人によっては、技術の向上よりも、別のことを優先したほうが良い場合もある。
その人の感覚や特性によって、目指すべき方向は変わると思っています。
そもそも、「上手い」の定義自体、普遍的ではないのかもしれません。
手縫いが上手だと、「機械で縫ったみたい」と褒められることがあります。
もちろん善意の言葉でしょう。
でも、そのたびに、「それなら機械で縫えばいいじゃないか」という感覚も、どこかに残ります。
機械による生産が一般化するほど、“正確さ”だけを目指す意味は、以前より薄れている気もします。
写真の登場によって、絵描きに求められる能力が変わっていったことにも、少し似ています。
ただ正確に縫うことが、「上手い」なのか。
これは、手で何かをつくるすべての人に共通する問いなのかもしれません。
「上手い人がラフにつくるもの」と、「上手くない人が丁寧につくるもの」。
どちらが良いかと聞かれたら、 ボクは前者に惹かれます。
もちろん、つくるものや好みによる話です。
ただ、後者に漂う“ビクビクした感じ”を、ボクはあまり好みません。
寿司職人には、「飯炊き三年、握り八年」という言葉があります。
一方で、「半年学べば十分だ」という意見もあります。
この議論について、ボクは「どちらも正しいし、どちらとも言えない」と感じています。
表面的な技術だけなら、半年でも身につくのかもしれません。
でも、半年で寿司そのものを理解できるとは思えない。
ただ、理解しきっていなければ仕事をしてはいけない、という考え方にも違和感があります。
もし完全な理解が条件なら、人は永遠に何も始められないかもしれない。
もしボクが今から洋服づくりを学ぶなら、学校には行かず、YouTubeを見ながら独学する可能性が高いと思います。
最初は、何を参考にすべきか判断するのも難しいでしょう。
それでも、「上手くできるようになる」ための情報は、今では十分に揃っています。
けれど、「上手さがわかるようになる」ことまで、動画だけで辿り着けるのかは、ボクにはわかりません。
もしかすると、「上手くなる方法」自体も、普遍ではないのかもしれません。
では、そもそも「上手くなる必要」はあるのでしょうか。
あるいは、人は「上手くなりたい」と思うべきなのでしょうか。
この問いに、客観的な答えをボクは持っていません。
もちろん、「壊れないものをつくる」という意味では、一定の技術は必要です。
けれど、ここで話している「上手さ」は、そのレベルの話ではありません。
ステッチが完璧に揃っていても、服の寿命が変わるわけではない。
それでもボクは、「上手くなることには意味がある」と答えたいと思っています。
その理由には、消極的なものと、積極的なものがあります。
まず、消極的な理由。
上手くならなければ、安価な大量生産品に飲み込まれてしまうからです。
同じことをするなら、工場のほうが速く、安く、正確につくれる。
だからこそ、個人がつくる意味を持つには、別の価値を生み出さなければならない。
そういう意味で、「上手くなる」は、一種の弱者戦略でもあります。
一方で、もっと単純な理由もあります。
上手くなることは、おもしろい。
楽しい。
それだけです。
もちろん、それを消費者が望んでいるとは限りません。
市場のニーズだけを考えていたら、出てこない発想かもしれない。
でも、人を感動させるものには、いつだって、つくり手のエゴが少し混ざっていると思います。
ボクは、上手くできたものを見たい。
そして、上手くなることそのものが、好きです。
だから、「上手くなる」こと自体は、単純に良いことだと思っています。
ただ、それを近視眼的に、「個別の技術だけ」の話として捉えるのは、おすすめしません。
本当の意味での「上手くなる」は、もっと全体を見渡した、俯瞰的な感覚の中にあるのだと思います。
2026年5月22日
