和式、洋式、様式
最近、ある着物関係のセミナーで
「1964年の東京オリンピックを契機に、日本の着物の様式(仕立て方・着方)が固定・標準化された」
という話を聞き、「なるほど」と思いつつ、ちょとした違和感を覚えました。
この話が事実かどうか自体は、個人的には最優先ではありません。実際、生成AIで調べてみると、ChatGPTは「明確な事実とは言えない」、Geminiは「一定の影響はあった」と、結論は分かれました。ただ、誰かが1964年に明確なルールを定めた、というほど単純ではないにせよ、戦後から高度経済成長期にかけて、着物の様式が徐々に固定・標準化されてきた傾向はあるようです。
生成AIによるいくつかの理由を読んでいて、オリンピックの開催を控え、海外に向けて、「日本らしさ」の演出をはかろうとすることはありがちな話ですが、個人的に引っかかったのは、「伝統の規格化がされた」という点で、それまで家庭で母親から娘へ伝わっていた「ゆるやかな伝統」が、世界に見せるための「ナショナル・ユニフォーム」として再定義された。つまり着物は「生活の中で工夫して着るもの」から「ルールに従って正しく着るもの」へと変化した、という点です。
ちなみに、1950~60年代にかけて、着付け(着物の着方)を教える教室や講座が急増したそうで、そういえば、セミナーの講師の方が、世代的に自身の経験ではないものの、上記の発言とともに、「昔はもっと自由だった」と、話されていました。
洋服の世界での「ルールに従って正しく着る」は、スーツなどでもありますが、スーツは、着物のように、かつては自然に伝わっていた作法が失われ、再定義を必要とした、という歴史は持っていません。
ここで、なぜボクが、この着物の変化が気になったかというと、「この「型」の形成が、人為的すぎるからだ」、ということに気づきました。「○○はこうでなければならない」という言葉は、分かりやすく、説得力があります。でも同時に、その強さゆえの副作用も大きいように思います。
一方で、「自由であれば、それだけでよいのか」という問いもあります。「なんでも自由に作り、着れば良い」という考え方には、ボクは否定的で、ある種の「型」は必要だと考えます。全くの白紙状態から突然、「美」が生まれる可能性はありますが、あまり関わる気がありません。
写真は、最近制作した、着物に合わせるための紬のコートです。
着物に合うシンプルなシルエット、洋服づくりで培った技巧を活かした、二通りの着方ができる襟。着物の「型」と、洋服づくりの「型」を、同時に意識しながら形にしました。
型は、人を縛るためだけにあるものではなく、思考や工夫を深めるための「足場」にもなります。
どの型を受け継ぎ、どの型を疑い、どう更新していくのか。
その問いに、答えを出せるのかは分かりませんが、これからも、「型」を守りつつ、疑いつつ、服つくりを続けていきたいと思っています。
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着物用の紬のコート
2025年12月22日
