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日本の洋服は「伝統」になり得るか


ボクが活動の拠点を関西へ移そうと思った理由のひとつに、「洋服は伝統になり得るのか」という問いがあります。
別に、今すぐ伝統になれるとは思いません。もしかすると、ボクが生きている間には実現しないかもしれない。
そもそも、「伝統になる」を、自分で決められるわけではなく、多くの人が使い続け、受け継ぎ、振り返ったときに初めて生まれる評価です。
なので結果そのものには、あまり興味がありません。
でも、「伝統になり得るのか」と、問うことには意味があると思っています。

ボクは、着物の世界に見られる「変わらなさ」に違和感を覚えます。
「昔からこうだから」「本来はこうあるべきだから」という言葉が、変化を拒む理由として使われることがあります。
でも一方で、洋服の世界にも別の違和感を覚えます。
それは、「常に新しくなければならない」という価値観です。
毎年、毎シーズン、新しい形や新しい流行が求められる。変化そのものが目的になってしまい、「なぜ変えるのか」が置き去りになることも少なくない。
ファッション雑誌や服飾教育も、その流れを後押ししてきた部分があると思います。
本来、生活の中で使われ続けるものは、完全に変わらないこともなければ、無理に変え続ける必要もありません。

変化とは、起こすものというより、起こるもの、なのではないか。

暮らしが変わり、人が変わり、技術が変わる。その結果として、少しずつ形が変わっていく。
そのくらいが適切なのだと思います。

ボクは、ブランドとはある種の「マンネリズム」だと思っています。
もちろん、退屈という意味ではなく、「変わらない部分を持ち続けること」です。
新作を見るとき、多くの人は「何が変わったのか」に注目します。でも、本当に大切なのは「何が変わらなかったのか」ではないか、と。
伝統と呼ばれるものには、必ず変わらない核があります。
形そのものは変化しても、その奥にある考え方や価値観が受け継がれている。
それが技術なのか、美意識なのか、あるいは哲学なのか。 どちらにせよ、そうした普遍性がなければ、長い時間を生き残ることは難しい。

だから一度、「洋服の正しさ」とは何かを考えてみる必要がある、と思います。

もちろん、誰にでも当てはまる絶対的な正解があるとは思いません。
それでも、「良い服とは何か」「なぜその服を作るのか」という問いを持ち続けることはできます。

ただ、その問いが「○○とはこうでなければならない」という結論になってしまったら危険です。
それは伝統の世界が抱えてきた危うさでもあります。
伝統は、本来は長い時間の中で育まれた知恵の集積です。
でもそれが、権威となり、ルールとなり、人を縛ることもある。
もし洋服が未来に伝統と呼ばれる存在になるなら、その硬直性は乗り越えなければならない課題だと思います。

経済的な面から見ても、洋服が伝統として認識されることには意味があります。
安さだけを競う市場では、作る人も疲弊し、使う人も豊かになりません。
時間や技術に価値を認め、それに見合った対価を支払う文化が育てば、作る人と着る人の双方に余裕が生まれます。
それは単なる高価格化ではなく、価値を共有する仕組みです。
そして、自分が着ている服が単なる消費財ではなく、歴史や文化の流れの中にあると感じられたら、それは心の拠り所にもなるでしょう。

人は便利さだけでは生きられません。
どこから来て、どこへ向かうのか。
そんな感覚を持てることも、文化の役割のひとつだと思います。

洋服はもともと西洋から入ってきたものです。
でも、それが日本の伝統になってはいけない理由はありません。
着物だって、長い歴史の中で外からの文化を受け入れながら形づくられてきました。

伝統とは、最初から伝統だったものではありません。
誰かが作り、誰かが使い、それを次の世代が受け継いだ結果として生まれるものです。

だから伝統を、過去から現在へ続くものとしてだけではなく、現在から未来へ育てていくものとして考えてもよいのではないでしょうか。
ボクは、日本の洋服にも、その資格があると信じています。

日本の洋服は「伝統」になり得るか

日本の洋服は「伝統」になり得るか


2026年7月29日